たまには、過去の作品バナシでもしましょーか。

オレがK社に入ったのは、1989年12月18日月曜日。
なーんもできなかったからね、この時。よく雇ってくれたなあーと今でも思いマス。
入社の経緯については過去に書いた通りで、同じ89年初頭に卒業制作の一環で2曲作ったのが(作品をカタチにしたという意味では)生涯初作曲で、コナミの面接時にもう1曲作って、その後さらにもう1曲追加と、たった4曲しか作曲経験がない状態だったから、こんなオレに曲の量産なんて出来るんだろか、と不安に思ったモンだった。
しかも、パソコンも満足に触った事がないと来てるんだから、シロートもいいとこだ。
入社して最初の2日間はまだ自分のPCすら無く、代わりに余ってるラップトップを渡されて、ただただアルファベットをタイプする練習に明け暮れつつ、FC版ブライファイターのデバッグを少々やり、トイレ掃除とお客さんにコーヒーを出すという、みんなが嫌がる役割を押し付けられた。
水曜日にようやく新品のPCがやって来て、プログラマーにセットアップをしてもらった後はファミコンのサウンドデータの書式をひたすら眺めてその日は終わった。
木曜日に社長と2人でサウンド制作に必要なモノを買いに行ったが、社長もオレも要領がよく分からず、ヘッドフォンとラジカセと、「ミュージ郎」なるPC98用シーケンスソフト+シンセ音源のバンドルを買った。早速セットアップしてデモ音源を鳴らしてたら、幼い頃に衝撃を受けたサンダーバードのテーマが入ってて、思わぬところで原点に立ち返ったと同時に、作曲家として向かうべき方角が見えたんだから、これぞ天啓かと思った。
金曜日、いよいよファミコンドライバーを触り始めたが、何となく使い方がわかってきて、土日の休日を挟んで月曜日にドラクエのオープニングを音色までそっくり完コピしたら、あのシロート、もうちゃんとした曲を鳴らしてるぞと噂になったらしく、火曜日に社長が突然「正月にIsolated WarriorっていうNES(海外用ファミコン)のゲームのアルファ版を海外のおもちゃショーに出展するから、オープニング曲を年内に作ってくれ」なんて云ってきた。
いやいや、作ってくれと云っても、作曲に使う楽器とか無いし。
ただオレも、その頃はとんだ世間知らずで、当時最低でも30万円したシンセを作曲用に買ってくれなんて、そんな高いおねだりをしちゃダメだろーなーなんて躊躇して、結局会社の近所をブラブラ散歩しながら鼻歌で作曲して、いい感じのジングル案が浮かんだところで慌てて帰って音符データを打って、水曜日に一応聴けるカタチにしたら、今度は確かに会社がどよめいた。
と云うのも、オレは社内で「アイツは続かねえ」と囁かれてたらしい。あのシロート、3ヶ月もつかなあ、いやー3週間もたねえだろう、との事。失礼だなああ。
そこから30日まで改良を加えて、大晦日に企画氏と社長とオレの3人だけ出勤して、午前中にその新曲をゲームに合体して、軽く調整してロムを焼いたら、みんなで1号線沿いのデニーズでメシを喰って午後には解散した。
入社から2週間足らずにして、大晦日プチ返上ですよ。
そして、その時点で曲データを直打ちしちゃった方が効率的だと悟ってしまい、せっかく買ったミュージ郎はオレにサンダーバードという指針を示す役割だけを果たして使命を終えたのでした。

新年明けて1月は、ブライファイターのサウンドをGBへ移植しつつ、Low G ManというNESゲーの曲もヘルプで作って、2月にようやくアイソのチームに戻って来ると、頗る快調に曲を産んだ。
嬉しい事に、評判は上々だった。販売元のバップ社の担当さんに至っては「私、シオダさん(の曲)のファンですから」なんて云い出し、早くもファン第一号が誕生する始末だった。
まあ、確かにね、作曲家のタマゴとしては将来性を示せたとは思うんですよ。思うんですが、それはあくまで作曲という大枠での話であって、ゲームのBGM屋としてはまだシロートの域だったなあと。
あのゲームにとってベストな音楽を提供する、という意味ではまだ力不足だった。
そのせいで、残す工程もあと1曲のみ、という段階まで来て大スランプに陥った。
一応、曲はスラスラ出てくるんだけど、なかなかイメージが合わず、作れど作れどボツになった。
あんまり出来ないもんで、社長が企画氏に「そろそろ中潟さんに頼むか?」と打診したところ「いえ、シオダで行きます」と云ってくれたんだそうで、早くも信頼を勝ち得たのは嬉しかったが、その後もなかなか出来ず(結局中潟さんに依頼したが、それすらボツになったという難所ではあった)、最終的には企画氏がボツの中から一番マシな曲を選んだ。
今だったらもぉ、瞬時にイメージが掴めるんだけどなー。
そんな、NES用として制作されたアイソは「Max Warrior」という邦題で日本のファミコンでも販売される事となった。やっぱり自分の作品が初めて雑誌で紹介されて、初めて店頭に並び、しかもTVCMまで流れたのを目の当たりにできたんだから嬉しさもひとしおでした。

アイソの開発を終えると、今度はFastest Lapというゲームボーイのタイトルに入る事になった。
(と云いつつ、G.I.Joeのサポートまで平行してやらされたんですが。)
当時はF1ブームに差し掛かってたから、ゲームボーイ初のF1ゲームはヒットが確約されたようなモンだったが、他にも2社が同時期に同コンセプトゲーの開発に乗り出していたんだから、世の中そうは甘くない。
ところで、F1の音楽だったら世間のイメージも出来上がってるし簡単でしょ、と思われがちだけど、オレ、それをやらなかったんですね。
当時まだ、作曲でメシを食い始めて半年にも満たない時期。そんな伸び盛りの頃に、例えばメロディーとベースが同じ旋律を奏でるような創意工夫の無い作曲法に手を染めちゃったら、作曲家としての未来は無いと思ったんです。
だから、敢えてアンチF1っつーか、オレ独自のF1像を作り上げるつもりで作曲に臨んだという高いハードルを設定したもんだから、最初の1曲がなかなか出来なくて参った。
その直前までアイソの最後の曲が全然できなかっただけに、アイツやっぱりダメだったんじゃね?などと囁かれ、ファーステストの企画氏にはキレられて「オマエあさってバップさんが来るんだから、それまでに何とかしろよ!」って電話をガチャ切りされたんだけど、そのバップさんを迎えたあさっての初披露では、企画氏が想像してたよりもあさっての方角から曲が飛んで来たんだそうで。
「すみません、まだ1曲しか出来てないんですけど、全編こんな曲調で行こうと思います」って聴かせてみたら、あれ以来ロクに口もきこうとしない企画氏が、バップさんに見えないように肘で小突いてきて、見ると完全に高揚した表情をしていて、バップさんも興奮を抑えきれない様で帰って行き、とりあえず独自のF1像を打ち立てるという目標は達成できそうだと確信した。
1曲目の成功で勢いに乗って曲を量産し、ゲームへの合体もある程度進んだ頃、ファーステストを担当していた外注のプログラマーさんに「ゲーム音楽をやってる友達に聴かせたら、この人スゴイ!って大絶賛でしたよ」って云われた。
たった半年前までは何にもできなかったシロートが、今や同業の、しかもこのプログラマーさんはK社の開発陣では最年長だし、その友達って事はキャリアも長いのかも知れず、そんな大先輩と思わしき方がオレの曲を聴いてスゴイと云ってる。何だか不思議な心持ちになった。
アイソの制作を終えた時に、中潟さんからは「シオダ君はもう、一人前だよね」という軽いお墨付きは頂戴したんだが、面識のない外部からのプロ評を聞いたのはこの時が初めてだったもんで、驚いたし嬉しかったし、作曲の世界で堂々と戦っていけそうだ、という自信もついた。
(いま思えば、発表前の音楽を外部の同業者に聴かせるなんて大問題なんだけど、当時はただ嬉しかっただけでしたね。いかんいかん。)
そうして完成した音楽ですが、ようやくゲームBGM屋としてのプロになれたかなあ、という手応えも掴んだのでした。もちろん、今のオレからしたらまだ全然アマイんですけど。

入社して1年が経とうとしていた12月初旬、またバップさんのゲーム制作に携わる事になった。
今度のは遊園地が舞台で、社内ではYOUという仮称で呼ばれていたが、主人公のボールを蹴る動作から、程なくしてポンポンと呼ばれ出した。
そんなポンポンの音楽については、すでに別項で紹介しているのでソチラに譲りますが、上記タイトル以外にもKick MasterというNESゲーのサポートや相撲ファイターの全サウンドをこなしてきて、自分でも思っていた以上の成長を遂げた、充実の1年の集大成を残せたという実感が、ポンポンの音楽にはあった。
全曲ツブ揃いな楽曲を心掛けたところ、思惑通りに「オレ、アノ曲が好きだな」「ワタシはコッチの曲が〜」と社内の声が満遍なくバラけた事もあって、これぞ会心作と思いましたね。
(一応云っておきますが、オレ自ら曲の感想を求めた事は一度たりともありませんので。)
ちょっとファーステストの話に戻りますが、あの音楽は主に、クラビネットのパラディドル奏法の要領でベースとメロディーを同一チャンネルでまかなう事で、16ビートの疾走感や、3和音らしからぬ音の密度を表現するという手法を使ってます。
これは例の、散歩しながら作ったアイソのオープニングからすでに実践していて、いわばシオダサウンド黎明期を代表するスタイルとなったけど、ファーステストの後期に作ったとある曲で、コードをフリーダムに進行させて独特な調性感を出すという、ある種ビバップ的とも云える手法を発見して、それが今日のシオダサウンドの礎を築くきっかけとなります。
次作の相撲ファイターもそのスタイルを和風で試みた意欲作だけど、さらにもう一歩踏み込んで完全にその影響下に入れたのがポンポンであり、ひとつの完成形とも云えるんです。
だからマイ代表作のひとつに挙げたいぐらいなんだけど、まさか、「ドキ!ドキ!遊園地」なんてタイトルを付けられちゃうとわー。
オレ、反対したんですよ。当時のゲーム屋って、ソフトの陳列をカウンターの後ろとか、施錠されたガラスケースの中でやっていて、欲しいタイトルを店員に告げて取ってもらう方式だったんです。
そんな状況で「すいません、ドキドキ遊園地ください」とは恥ずかしくてなかなか云えないもん。

アイソはその後、ヨーロッパでNESが販売された際のローンチタイトルに選ばれたおかげで、ヨーロッパでは大いに売れたそうで、バップさんからK社に記念の盾が贈られた。ファーステストもF1ブームのおかげで売れて、盾をもらった。
ところが、ドキドキ遊園地に関してはそーゆー浮いた話は残念ながら皆無である。オレすっげえ頑張ったのになああ。

ちなみに、ドキ遊制作中に入社一周年を迎え、その頃には後輩も何人か入ったが、相変わらずトイレ掃除とコーヒー係はオレの役目だったっつー。